LOHAS studio
嘉生 智昭@OKUTA
2015/12/14
私、少し日本史が好きなので、今日12月14日と言えばということで書かせていただきました!
12月14日は、有名な、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日です。
忠臣蔵と言った方が分かりやすいですね。
1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央(きらこうづけのすけよしなか)に小刀で切りかかるという事件が起った。
浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたが、吉良には一切のお咎めがなく、これが事件の発端となった。
家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、翌年の1702(元禄15)年12月14日寅の上刻、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)率いる赤穂浪士47人が、本所の堀部安兵衛(ほりべやすべい)宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入った。
2時間余りの戦いの末、赤穂浪士は一人の死者を出さずに吉良の首を打ち取り、泉岳寺の亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えた。
世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方したため、通常、このような罪には斬首が言い渡されるが、幕府は翌年2月4日、武士の対面を重んじた、切腹という処断になっている。
実は、浪士の一人の寺坂吉右衛門(てらさかきちうえもん)は討ち入りに参加したが、泉岳寺にひきあげる途中で姿を消して切腹を免れ、83歳まで生き延びてる。
いわゆる「仇討ち」の事件ですが、仇討ちは本来、身内・親族の恨みを果たすことでしたが、主君の無念を晴らすためという仇討ちは、異例で、美しい主従関係の象徴として、現在でも広く「忠臣蔵」が語り継がれる所以になっているのだと思います。
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